【国内】能登半島沖地震 災害ボランティア体験記

日本

今回は2024年元旦に発生した能登半島沖地震の震災ボランティアの経験をお伝えします。被災者の方のプライバシー保護のため、肝心な被災地の写真はあまり載せられませんが、被災地の現状を可能な限り多くの方にお伝えできるよう努めます。

ホーム – 令和6年(2024年)能登半島地震・石川県災害ボランティア情報特設サイト (jimdofree.com)https://prefvc-ishikawa.jimdofree.com/

ボランティアバスは当日の朝に金沢駅出発なので、私は、東京駅発 一 金沢駅着の夜行バスで石川へ向かいました。鍛冶橋駐車場から出発したのはいつ以来だろうか…?

バスの座席は案外快適で、よく眠れてすぐに金沢につきました。初石川県!

金沢駅西口に到着し、ボランティアバスも西口発だったため、有名な鼓門は見ないままボランティアバスに乗り込みました。(帰りは時間があったので門を見られました。)

ボランティアバスで穴水町のベースキャンプまで向かう途中、雨や雪が降ってきましたが、そんなことよりも道路の崩落に言葉を失いました。車が巻き込まれたままになっていたり、ガートレールだけが宙に浮いていたり、実際に見ると現実として受け止め難かったです。

2時間程かけてベースキャンプ到着。日本航空の高校の元校舎で、クラウンドのすぐ向こうには海が広がっていました。

受付をすませ、体育館へ。1人ずつテントが用意されており、想像よりも快適そうで有難い。

しかし水道は復旧していないようで、水は一切使えません。2ヶ月経ってもこの状態なのか…。復興というよりインフラ復旧すら終わっていないことに驚き、現場の厳しさを早速知りました。

さっと着替えて体をふき、バスに乗って昼食をとります。今回の目的地である珠洲市は能登半島の先端なので、ベースキャンプから更に1時間程かかります。

12:30ごろ珠洲市ボランティアセンターに到着し、オリエンテーションを受けてからグループに分かれ、現地ニーズとのマッチング。この日は海の目の前にあるお宅に伺うことになりました。

全体の行程はこんな感じでした。

4人でグループを組み、軽トラ2台で現場へ。途中の道ではマンホールがいくつも飛び出ており、車はとても走りにくい状態。

現場に着くとご夫婦が家を片付けていました。比較的新しいお家で、外から見た分では問題なさそうに見えます。

しかし近隣の家は一階がまるごと流されていたりして、津波の被害を受けたエリアだということがわかりました。

家の中に入ると、思っていたよりもきれい。きっと2人で掃除したんだ。

今日の依頼は、家具や家電が泥に浸ってしまったため廃棄してほしいということでした。靴を脱ぎ履きしながら、冷蔵庫、洗濯機、ソファなどと運び出していると「もう靴で上がってしまってください」と言われました。

しかし、まだこれから住むのだから、土足で上がるわけにはいかないと思い、土嚢袋を敷いたりして汚さないように作業しました。ですが、ガラスが落ちているからといわれ、さすがに…靴でおじゃますることに。

しばらく作業してから、寝室のマットレスを運び出すときにふと気づいたことがありました。子どもの作品がたくさん飾ってありました。ここで寝ていたのかな。無事だったのか、おいくつですかと聞きそうになり、ハッとする。無事ではなかったとしたら…。元気づけたいし、何か言葉をかけて応援したいけど、本当に何と言っていいのか。何も言葉がでてきませんでした。

一通り運び出し、時間的に作業終了。帰り際にご夫婦から飲み物の差し入れを頂きました。大変なのは被災した皆さんなのに、こちらを労ってもらってしまいました。

家が大変な状態なのに明るく優しいお二人。別れ際、結局言葉が見つからないまま、「ありがとうございました」しか言えませんでした。「がんばって」は、もう頑張っている人に言うべきではないし、「大丈夫ですよ」といっても大丈夫なわけがない状況。「無理しないで」といっても無理しないと状況が変えられない。何を言えば…。

しかし、旦那さんが「元気が出ました」って言ってくれた時に、少しは力になれたのかもと思えて、またこちらが救われてしまいました。

言葉の力って大きいけれど、言葉でなくても気持ちが伝わったり、励ましになることもあるんだなと気付きました。孤独じゃないって思ってもらえたなら、物理的にできることは少なくても来た甲斐があったと思えました。

ボランティアセンターに戻り、ペースキャンプまでまたバスに乗ります。ベースチャンプで夕食の弁当を食べ、消灯の22時まではミーティングや他のボランティアの方と話したりして過ごし、一日目が終わりました。

夜の体育館は-2°Cの極寒でした…

翌日6時に起き、掃除や準備を済ませバスで朝食をとりつつ珠洲市へ。今日は海から少し離れたお宅へ。現地にいたのはおばあさんとその息子さん。ぺちゃんこになった瓦礫の上で黙々と作業を行っていました。

瓦礫から、土壁と瓦屋根の立派な家だったことが伺えます。旗竿地の奥から出された木材や竹、土を軽トラ3台で運びます。

この地域は昨日とは異なり、地震の被害が大きかったようだ。多くの家屋がつぶれ、道路に倒れてしまっている家もある。

道中、斜めになって赤紙を貼られてしまった家の前で立ちつくす人を見かけた。そりゃこんな状態、自力でどうしろと…。2ヶ月経ってもこの状況なのかと、復興の難しさを改めて感じた。

お金ではどうにもならない、人の力でないと進められない復興が目の前にあふれていた。

大体の瓦礫を運び出し、梁や柱を解体していた息子さんを手伝う。ここでDIYで磨いた手ノコの力が活きるとは!汗だくで構造材を切断していきました。

しかしながら、この広い家を1人で、しかも人力で解体しているなんて…

「重機は来るんですか?」と聞くと

「来ませんよ」とまさかの返答…

話を聞くと、土地の中にお母さんが、大切にしている井戸があり、重機が入るためにはそれを壊さなくてはいけないらしい。だから全て自力で…。

力が出た。やらなくちゃいけないと改めて思った。

お母さんとも話した。土壁から竹を分別するためにひたすら土をすくっている。自宅を自ら解体するなんてどんな思いなのだろうか。

「もう慣れちゃったよ。やるしかないし」

昨日のご夫婦もそうだったけど、次の生活を見据えてやるしかないとはいえ、強い方々だなと思ったし、こっちが元気をもらってしまった。同情や慰めは失礼だと思った。

2日目の活動の終わりに「お気をつけて」と声をかけました。今も十分頑張っているし、無理も必要、だけどこれ以上経我したりしないよう、お元気でと想いを込めた。

ボランティアセンターからベースキャンプに戻り荷物を持って金沢まで向かいます。帰りの夜行バスまで時間があったので、他のボランティアの方と銭湯へ。2日ぶりのお風呂は最高で風呂あがりのコーヒー牛乳は絶品でした。こんな小さな幸せが、早く被災地でも当たり前のものになりますように。

今日のことを自分だけの経験で終わらせないよう、伝えていきたいと思います。

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